つい先月のおわり頃、膀胱炎らしき症状に見舞われた。

たいていストレスで免疫力の下がった頃合にかかるので、あーまたか…くらいの気持ちで市販されている苦い漢方薬を4日分しっかり飲みきった。軽めの症状であればいつもこれで治るのだが、今回はそうもいかなかった。

あれ?と思う頃には謎の激しい腹痛に襲われ、騙し騙し鎮痛剤を飲みながら痛みで早朝に目覚めること数日間。最終的に約数年ぶりの38℃越えの高熱にガタガタ震え、辛くて泣くという大人げない経験をしてのけた。

早めに病院を受診しろよという話なのだが、病院嫌いに加え退職後の保険証の手続きを忘れていたことによりずるずると長引かせてしまった。結局後日返還はあるものの10割負担で病院にかかるという珍体験をしてしまった。要らない経験値だ。

病院の先生曰く、腎盂腎炎だねー脇腹いたいでしょ?とのこと。スピーディーな診察と診断、臀部への筋肉注射だった。看護士さんに必死で注射が苦手だとアピールする22歳。それも軽やかにかわしサックリ打たれた。痛くないでしょ!と言われはい!と答えながらも痛みで声を詰まらせる22歳。最終的に保険証ないの!なら検査は省くから!本来であれば入院すべきだよ!今回は帰って薬飲んで様子を見なさい!と帰路につかされた。良い先生であった。

基本的に病院嫌いで本当に辛いときにしか病院へかからないのだけれど、どの病院もこれくらい早ければもう少し気持ちが楽なのになあと思った。病院で待つ時間は死刑宣告された死刑囚のような気持ちになるので嫌なのだ。独特な消毒液の匂いも得意でない。病院勤めだった人間がおかしい話だ。

とにかくそんなこんなで帰って来、薬が切れ熱が上がるたびにぐずぐず泣いている。膀胱炎の症状より高熱が辛い。膀胱炎の薬は副作用でひたすら吐き気が治らなく、毎日高熱にうなされながらえづいている。こういう時こそ実家へ帰れという話なのだが就活ラッシュだったせいで履歴書書きと面接が詰まっている。

調べたところ、腎盂腎炎が治るのに必要な日数は1週間から2週間。

もうどうにでもなあれ。

この調子で受けた会社から内定がきた際は正直内定辞退したい。お前は就活生の何を見ているんだ。

SNSなんて常に誰かに当てた空リプだ。

FacebookしかりTwitterしかりブログしかり常に見ているであろう誰かを気にしている。意識的ならまだいい、無意識的だからいけない。

例えば呟く死にたい、心のうちに置いておけばなんの問題もない。どれだけでも死にたいと思えばいい。しかしそれを人に見える形で発信するのが良くない。

本当に死にたいのであれば誰かの目につき止められることを危惧して表に出さないのだ。人目につく死にたいは死にたくないのだ。誰かの死なないでを待って当てにしている、非常にタチの悪い"死にたい"だ。

このたびディズニーオタクである母と妹に連れられ高校の修学旅行ぶりにディズニーリゾートへ行ってきた。元々、ディズニーが好きではない私をどうにかこちら側へ引きずり込もうとする母の策略であったのだが、まんまと策略通り楽しんでしまった。

ディズニーシー内には"ミラコスタ"なる宿泊施設が存在しており、その施設内にはミッキーマウスが営むレストランというコンセプトの"シェフミッキー"なる様々なキャラクターがウェイトレスをしファンサービスをしてくれるといったレストランがある。そこでまあ私はミッキーにファンサービスを頂いたわけなのだが、素直にイケメンすぎてドキドキしてしまった。有名人と握手したときのような高揚感だった。(いま思えば着ぐるみ相手に非常に面白い。)

思わず、死んでしまう…と呟いた私に、彼は身振り手振りでそれはいけないと説明してみせた。

世界的人気者であるミッキーマウス死ぬ死ぬ詐欺を披露するメンヘラ、何処へ行ってもブレないものである。自分自身にガッカリした。私は今後死にたいと思った時に思い出す顔がミッキーマウスになってしまった。なんという面白人生であろうか。

とりあえず、死ぬ間際に浮かぶ顔がミッキーマウスになってしまった今、死んでも死なずに生き抜こうと思えた。ありがとう、ミッキーマウス。ありがとう、ディズニーリゾート。

自分の不甲斐なさが恨めしい。

自分の弱みを差し出し話し合いをした。
それでもわたしは結果を出せなかった。何もできなかった。現状を打破することはできなかった。むしろ悪化させてしまった。

着地点が見えていなかったからなのか、最初から諦めていたのか、まだどこかで感情が渦巻いたままなのか、それらすべてなのか。

殺すだとか、自殺するだとか。何も出来ないのがわかっていても怯んでしまうのは私が弱いからなのか。

優しいと言われる。でも優しいのではない。どうしたって誰にでも好かれたくなってしまう。結果的に色々差し出してしまう。誰にでも好かれたい人間は誰にも好かれないのだ。

もう、どうしようもないのだ。

私は現世で二度と幸せになれることもなければ、この運命と一生付き合っていかなければならないのだ。

自分の保身だけを考えた行動をした。もう私は死ぬしかないのだ。誰にも迷惑をかけずにと考えれば死ぬことすらできないのだ。生きにくい。

何度も何度も死んでくれたら、と願った。

死んでしまえば永遠に僕のなかに居続けるのに、と言った。どんなに他へうつつを抜かしても、正当に、居続けられるのに。

思ったよりも辛くて辛くて涙と胃痛が治らなくて、私は自分が余計にわからなくなってしまった。何が辛いのであろうか。

こうなったらもう死んだらいいのだ。
私は、私のことを好きでいてくれるひとの中にだけ居続けたい。それがいい。

私は元来我儘な女だし、自分勝手なのだ。
自分さえよければそれでいいし、私は何も間違っていないのだ。いつまでも、私が一番正しいのだ。

私は、私みたいなクソ女とは絶対仲良くしたくないし、結婚もしたくない。
自分が嫌いなくせに自分が可愛い。一生自分と分かり合えない。自分の中に自分がたくさんいる。もう付き合いきれない。

こういったときに、手を差し伸べてくれるひとの手を素直に掴めない。1人で醜くあがいて死ぬのだ。ありがとう。

自分のことは自分が一番知っている、ってなんて烏滸がましいんだろう。

自分は自分のことを知っているかもしれない。けどそれはあくまで自分からみた自分であって、客観的に見られることしかない世の中で圧倒的に必要なのは主観じゃない。
本当の自分はこんなんじゃないんだ、と思いながら過ごしてる自分はそれはもはや本当の自分は死んでいる。もう二度と表に出ない自分なんてないに等しい。

まだ本気を出していないだけ、なんて言い訳ができるのは若いうちだけなんであるな。

イクラ食べててふと思った。

誰も見てないただの独り言が楽しくなりつつあるの、自我の崩壊感ある。


牛乳の中にいる蝿、その白黒はよくわかる、
どんな人かは、着ているものでわかる、
天気が良いか悪いかもわかる、
林檎の木を見ればどんな林檎だかわかる、
樹脂を見れば木がわかる、
皆がみな同じであれば、よくわかる、
働き者か怠け者かもわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

襟を見れば、胴衣の値打ちがわかる、
法衣を見れば、修道僧の位がわかる、
従者を見れば、主人がわかる、
頭を覆っているものをみれば、どこの修道女かすぐわかる、
誰かが隠語を話してもちゃんとわかる、
道化を見れば、好物をどれほどもらっているかがわかる、
樽を見れば、どんな葡萄酒かがわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

馬と騾馬の違いもわかる、
馬の荷か騾馬の荷か、それもよくわかる、
ビエトリスであろうとベレであろうと、知ってる女はよくわかる、
どんな数でも計算用の珠を使って計算する仕方もわかる、
起きているか眠っているかもわかる、
ボヘミヤの異端、フス派の過ちもわかる、
ローマ法王の権威もわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

詩会の選者よ、要するに何だってわかる、
血色のよい顔と青白い顔の区別もわかる、
すべてに終末をもたらす死もわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

フランソワ・ヴィヨン / Ballade des menus propos

自分のことは自分でキメたい。

いつの間にか失っていた自我はおそらく期待するのをやめたあの時に、"誰か"の手によって刈り取られたのだろう。

その誰かが誰だか私は知っているし、何もかもその誰かのせいにするのが間違っていることも知っている。

I know. と。

その言葉が何を意味するか、昔の私にはわからなかった。わからないままでいればよかったのに。

4年も無理やり引きずられて、気づけば自分の足で歩くこともままならない。ここで話すべきは何だろうか。何を訴えても心まで響かない。私に自我は再び芽生えてくれるだろうか。

すべて笑顔で誤魔化し続けてきた自覚がある。笑い事じゃない、なんて何度も聞こえた。

いつまで経っても付いて回るのは過去で、未来なんか見えようもない。踏み出した一歩目の先は本当に地面だったんだろうか。

いつまで経ってもまとめられない怒りの感想を放置している。書きたいことがたくさんある。たくさんあるうちのどれかをピックアップすることができない。どれがいいのかわからない。

いつの間に私は考えるのをやめたんだ?

人間が考える葦であるなら、私はもはや人間ですらないのかもしれない。考えることをやめ、成長をやめ、行き着く果ては何なんだろう。

はやく人間になりたい。

希望と絶望はセットになっていて、片割れのもとへ無事届けるまで僕らはひたすら走らされるのだと、大好きな人が言っていた。

希望をもった人間だけが絶望を得られるのなら、希望を捨てた今の私はもう何も得られないのだろうか。

あと味噌ラーメン食べたい。

幸せに生きることができない。

幸せの形は色々あれど、ここでいう幸せは恋愛的な意味での幸せであるのだけれど。

この人と付き合ったらきっと楽しいだろうな、とか、すごく大切にしてくれるだろうな、といった人からの告白は有難い。でも反面自分にそんな人と付き合う資格はないとも思っている。

自分がろくでもないのは自分が一番知っている。そんな私がために1人の素敵な人間の人生を棒にふらせるわけにはいかないと思っている。

私は自分を何者だと思い込んでいるのだろう。

最近、初めて会うひとに可愛い面白いと言われることがある。
私自身自分のことを下の中くらいのブスだと確信しているし、特別話が面白いほうだとも思っていない(知らない人間となんか当たり障りのない会話しかしたくないし、なんなら自分のことなんてなるべく話したくないからだ)。

この人たちは私のどこを見てるのだろうと思う。相手の本質を見抜けない人なのだとガッカリしてしまう。

本当に、私は自分を何者だと思い込んでいるのだろう。

自分のなかのドロドロした面まで見抜いてくれる人間を恋愛的な意味でもそうでなくても好きになりがちだ。しかし、そういう本質を見抜く能力のある人はそれなりに私と同じようなひねた考えを持っていることが少なくない気がしている。

おそらくそういったひねた人間は前述したような、自分が誰かと幸せになるなんて、といった考えが根底にあるような気もしている。

自分と同じ思考をしているのがわかるから、恋愛的に好きだからといって告白をしても何一つ実らないのがわかりきっている。わかりきっているから告白なんて不毛なことをして今の関係も維持できなくなるなら何もしないほうがまだ良い。
完全に負の連鎖が起きている。答えのないエンドレスエイトだ。

僕たちには傷つかずに幸せになる方法なんてどこにもない。

理解してもらおうとなんてしたくない。これ以上醜く足掻きたくない。傷つきたくない人間はいつだっていつまでだってか細いプライドでカッコつけでいるのだ。



おそらく、何も考えずに可愛い面白いと言ってくれる人間と何も考えずに一緒になるのが幸せなのだ。だがそんな幸せが必要なんだろうか。明言はしたくない、反語で表現すれば明確だ。