明るい地獄の話。

明るい地獄、というパワーワード。いつかどこかで耳にした。

私は無条件で自分を愛してくれるひとをずっと探していた。

嫌われる要素が人より多い私にとって、何をしても好きでいてくれるひとが1人でもいたらどんなに救われるだろうと何度も考えていた。

元カレが家を出て行くことになった。

ここ数ヶ月色々あって揉めに揉めた挙句、もう2人で生きていくと腹を括った矢先であった。

私は別れてからずっとこのままではいけない、色んな経験を積まねばなるまいと、右往左往していた。それと同時に住み着く元カレに早く出ていくよう耳にタコができるほど言っていた。

右往左往していたことは元カレには敢えて言わなかった。言ったところで面倒なことになるのが目に見えていたからだ。

まあ、案の定詰めの甘い私によって彼も知るところになるわけなのだけど。


それからというもの、私が男女問わず誰かに会うため外出するたび、また男か、なんで俺がいるのに他の男と会うんだ、と、思った通りの面倒なことになった。

そのうち、いちいち言われることが面倒くさくなり、外出するのをやめた。

もう一生この人が人生につきまとってくるのだ、と思った。なんなら、私が他の男と寝ていても私を一途に想っているこの人のそれはむしろ狂気じみた純愛ではないか、とすら思った。

私の探していた無条件で自分を愛してくれるひとはこんなひとだったか、と思った。

そこからはもう全てを諦め、彼との生活を如何に行うかだけ考えた。


これは、明るい地獄だ。


そんな矢先の話であった。
はたして地獄に留まり続けることになったのは一体誰だろうか。


ふと、寂しくなって人に会いたくなる。

寂しさの敵は暇にあって、次点で疲れにある。

大抵会いたくなる人は決まってて、ひたすら2人でお酒を飲んでひたすら2人で変な理屈こねくり回していられる人が良い。

なぜだかわたしの友人はまともな人たちばかりで、難ある性格の捻じ曲がった人間が片手で数えるほどしかいない。おそらく素直に育つとこうはならないのであろう。私も一般家庭でヌクヌクと育てられたはずなのになんだこの差は。

私は酔うとひたすら自分がゴミクズのような人間であって、それでなお周りの人間もクズばっかだと熱のある弁を奮いたくなるクズ人間なのであまりまともな人と1on1で飲むとドン引きされ今後の関係に響いてくるのでしたくない。と、私と同じような友人に以前熱弁した。わかる、とのことだった。

別に嫌いではない、むしろ好きな友人であっても私はどこか冷静に分析して挙句こいつはこういうタイプのクズだ、とジャンル分けしてしまう。もう性分だから許してほしい。それを理解できない人とはお話できない。疲れるから。相手も私も。

人間考えすぎると吐くんだよ、知ってた?私は知らなかった。
もう生きるために繋いでた関係性が煩わしくて仕方なくて、なんでこの人私のこと嫌いなくせにわざわざ大丈夫?って声をかけるんだろうなって思ってた。
生きるための関係性が如何に大事かわかってるから、嫌いでも建前上声をかけなきゃならないんだね。
何を考えてるのかわからない人の思考を見せ続けられるのは辛い。わかる人とだけ暮らしていきたいね。
好きな人に好きって伝えたいし、嫌いな人に嫌いって伝えたいね。
毎日人と喧嘩したいね。わかりあいたいね。
こんなことばっか言ってるから嫌われるんだろうね。

などと鬱々考えてたらパン生地に塩仕込むの忘れかけた。

一時期、愛してほしい、が口癖になっていた。

右往左往して色んな人と色んな経験を積んでいる時期のことだった。

どんなに色んな人と会ってもどんなに色んなことをしても根本的な飢えのようなものが満たされなかった。

おそらくそれはもう二度と充足たり得るものではなく、今後一生付き合っていかなければならないタイプの飢えだということに気づいたのはここ最近だ。

人に心置き無く甘える、ということが上手くできない。

ワガママを言えば嫌われる気がするし、容赦無く甘えればブスのくせにと引かれる気がするのであった。

そこを今まで上手く埋めていたのは恋人という名称の人間だったし、彼と別れてからは見ないふりをし続けてパンパンに膨らんだ自己認識欲求が破裂しかけている状態が飢えの原因であるように思えた。

セックスなしで会えない関係の人間に求めても埋まらない、飢餓。

今後この先私はどうやって誰に自己認識欲求をぶつけたら良いのであろうか、未知数すぎて考えたくもない。

SNSをやめたから心の風邪をひかなくなったんじゃなくて、考えるのをやめたから心の風邪をひかなくなったのであって、地獄であることには一切変わりなかった。