自分のことは自分が一番知っている、ってなんて烏滸がましいんだろう。

自分は自分のことを知っているかもしれない。けどそれはあくまで自分からみた自分であって、客観的に見られることしかない世の中で圧倒的に必要なのは主観じゃない。
本当の自分はこんなんじゃないんだ、と思いながら過ごしてる自分はそれはもはや本当の自分は死んでいる。もう二度と表に出ない自分なんてないに等しい。

まだ本気を出していないだけ、なんて言い訳ができるのは若いうちだけなんであるな。

イクラ食べててふと思った。

誰も見てないただの独り言が楽しくなりつつあるの、自我の崩壊感ある。


牛乳の中にいる蝿、その白黒はよくわかる、
どんな人かは、着ているものでわかる、
天気が良いか悪いかもわかる、
林檎の木を見ればどんな林檎だかわかる、
樹脂を見れば木がわかる、
皆がみな同じであれば、よくわかる、
働き者か怠け者かもわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

襟を見れば、胴衣の値打ちがわかる、
法衣を見れば、修道僧の位がわかる、
従者を見れば、主人がわかる、
頭を覆っているものをみれば、どこの修道女かすぐわかる、
誰かが隠語を話してもちゃんとわかる、
道化を見れば、好物をどれほどもらっているかがわかる、
樽を見れば、どんな葡萄酒かがわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

馬と騾馬の違いもわかる、
馬の荷か騾馬の荷か、それもよくわかる、
ビエトリスであろうとベレであろうと、知ってる女はよくわかる、
どんな数でも計算用の珠を使って計算する仕方もわかる、
起きているか眠っているかもわかる、
ボヘミヤの異端、フス派の過ちもわかる、
ローマ法王の権威もわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

詩会の選者よ、要するに何だってわかる、
血色のよい顔と青白い顔の区別もわかる、
すべてに終末をもたらす死もわかる、
何だってわかる、自分のこと以外なら。

フランソワ・ヴィヨン / Ballade des menus propos

自分のことは自分でキメたい。

いつの間にか失っていた自我はおそらく期待するのをやめたあの時に、"誰か"の手によって刈り取られたのだろう。

その誰かが誰だか私は知っているし、何もかもその誰かのせいにするのが間違っていることも知っている。

I know. と。

その言葉が何を意味するか、昔の私にはわからなかった。わからないままでいればよかったのに。

4年も無理やり引きずられて、気づけば自分の足で歩くこともままならない。ここで話すべきは何だろうか。何を訴えても心まで響かない。私に自我は再び芽生えてくれるだろうか。

すべて笑顔で誤魔化し続けてきた自覚がある。笑い事じゃない、なんて何度も聞こえた。

いつまで経っても付いて回るのは過去で、未来なんか見えようもない。踏み出した一歩目の先は本当に地面だったんだろうか。

いつまで経ってもまとめられない怒りの感想を放置している。書きたいことがたくさんある。たくさんあるうちのどれかをピックアップすることができない。どれがいいのかわからない。

いつの間に私は考えるのをやめたんだ?

人間が考える葦であるなら、私はもはや人間ですらないのかもしれない。考えることをやめ、成長をやめ、行き着く果ては何なんだろう。

はやく人間になりたい。

希望と絶望はセットになっていて、片割れのもとへ無事届けるまで僕らはひたすら走らされるのだと、大好きな人が言っていた。

希望をもった人間だけが絶望を得られるのなら、希望を捨てた今の私はもう何も得られないのだろうか。

あと味噌ラーメン食べたい。

幸せに生きることができない。

幸せの形は色々あれど、ここでいう幸せは恋愛的な意味での幸せであるのだけれど。

この人と付き合ったらきっと楽しいだろうな、とか、すごく大切にしてくれるだろうな、といった人からの告白は有難い。でも反面自分にそんな人と付き合う資格はないとも思っている。

自分がろくでもないのは自分が一番知っている。そんな私がために1人の素敵な人間の人生を棒にふらせるわけにはいかないと思っている。

私は自分を何者だと思い込んでいるのだろう。

最近、初めて会うひとに可愛い面白いと言われることがある。
私自身自分のことを下の中くらいのブスだと確信しているし、特別話が面白いほうだとも思っていない(知らない人間となんか当たり障りのない会話しかしたくないし、なんなら自分のことなんてなるべく話したくないからだ)。

この人たちは私のどこを見てるのだろうと思う。相手の本質を見抜けない人なのだとガッカリしてしまう。

本当に、私は自分を何者だと思い込んでいるのだろう。

自分のなかのドロドロした面まで見抜いてくれる人間を恋愛的な意味でもそうでなくても好きになりがちだ。しかし、そういう本質を見抜く能力のある人はそれなりに私と同じようなひねた考えを持っていることが少なくない気がしている。

おそらくそういったひねた人間は前述したような、自分が誰かと幸せになるなんて、といった考えが根底にあるような気もしている。

自分と同じ思考をしているのがわかるから、恋愛的に好きだからといって告白をしても何一つ実らないのがわかりきっている。わかりきっているから告白なんて不毛なことをして今の関係も維持できなくなるなら何もしないほうがまだ良い。
完全に負の連鎖が起きている。答えのないエンドレスエイトだ。

僕たちには傷つかずに幸せになる方法なんてどこにもない。

理解してもらおうとなんてしたくない。これ以上醜く足掻きたくない。傷つきたくない人間はいつだっていつまでだってか細いプライドでカッコつけでいるのだ。



おそらく、何も考えずに可愛い面白いと言ってくれる人間と何も考えずに一緒になるのが幸せなのだ。だがそんな幸せが必要なんだろうか。明言はしたくない、反語で表現すれば明確だ。


元々メンヘラ気質だったのが最近顕著で辛い。

どうしても傷つきたくなくて会いたい人に会いたいということすらままならない。

もう22にもなるのにいつまで経っても生きるのが上手くならない。恋愛ばかりが生きることでは無いだろうが、幸せな老後に伴侶は必要だと思っている。

いつまで経っても自分に素直に生きられない。傷つきたくないという根底にある気持ちをどうにか取り除かないといつまで経っても上手く生きられないのではと思う。

メンヘラは誰と一緒になると幸せになれるんだ。

とりあえずメンヘラとSNSの相性は最高なのでSNS断ちをしようと思う。

幸せになるにはまず現状に満足しなければならないよ、と教えられた。幸せは自分が幸せだと思えばそれが幸せなんだと言う。

私は自分がいつまでも幸せになれないことを悟った。

どうしたら良いかばかり考えてはダメ、どうしたいかを考えろと言った。もう何年も忘れていた。自分がどうしたいか、なんて考えることもなかった。

いまからならまだ間に合うだろうか。もうなりふり構わず行動したって駄目なものは駄目だったのだから次を目指すしかない、ともうずっと言っている。

物心ついたときから根本が一切変わっていない。

私はどうしたいのだろうか。

周りがやたらめったらに結婚していく。
それなのに私ときたら家に寄生虫が住み着いてるは、彼氏のかの字もないは、トキメキのとの字もないは、そもそもこの状況で彼氏なんか作れないは、いつ結婚できるのだろうか。まずはさっさと追い返すところから。

最近家でひたすらThe Big Bang Theoryという海外コメディを観ている。ディープなギークの主人公が女の子と良い雰囲気になったときにこなれた動きをしていて、海外ではオタクでも恋愛に積極的なのかと思った。あとめちゃめちゃ優しいめちゃめちゃに甘やかしてくれる彼氏が欲しくなった。つらい。

 

特撮映画があまり好きではない。

 

なんの脈絡もなく怪獣が口から炎を吐くリアリティの無さだったり、拭いきれない子供騙し感がどうしても受け止め切れなかった。どんなに勧められたとしても観ることはないだろうと思っていた。

 

庵野秀明シン・ゴジラを発表するまでは。

 

 

観たことのないゴジラのイメージ、なんとなくやってきて街を壊すゴジラをやっつける。本当にそれくらいしか思っていなかった。

 

庵野秀明シン・ゴジラを発表したとき、エヴァンゲリオン好き(QはNO)としては気にはなるが正直観に行こうとは思ってもいなかった。いいところDVDのレンタルが開始したら観てみよう程度であった。

 

しかしながらネットで出回る好評価の嵐。最初はゴジラ好きのゴジラ好きによる贔屓目の好評価であろうと思っていた。でも何か様子が違うではないか。

 

 

私はふと、以前に観た映画のことを思い出していた。"劇場版ガールズ&パンツァー"。やたらと評価されていたのは4DX版である。ガルパンおじさんからはもちろん、映画好きからやたら好評価を得ていたアニメ映画。ガルパンを観たことなかったけど面白かった!ガルパンは最高!ガルパンはイイゾ〜!方々から上がる高い賞賛に、観に行こうか悩んでいたところ布教活動家のガルパンおじさんから声をかけていただいたので観に行ったのだった。

 

私は、ガルパンだけは絶対に観るまい。どうせ美少女(笑)たちがキャッキャウフフしながらお茶を嗜み途中でこれみよがしにほんのちょっと戦車をパタパタさせるのだろうと思っていたのだった。

 

しかし蓋を開けてみれば、ガルパンアニメを観たことのない人にもわかりやすい前説、からの開始早々砲撃の嵐。途中で美少女(笑)たちが温泉に浸かるもののわかりやすいお色気シーンのひとつもないまま、また戦闘開始。最終的には結末に泣かされみぽりんかっこいい〜!結婚してくれ〜!とのたまう始末。

 

また、評価されていた"4DX"とは、匂い、振動、水飛沫、果てにはシャボン玉等を使い五感で映画を楽しむという日本の最高技術を結集させたような代物で、都会には存在しているのだが、北海道には札幌にしか存在していない。札幌住みを札幌住みたらしめる特権。もちろん4DX版で観た。ありがとう、札幌。

肝心の4DXといえば、あれほど戦車映画と相性の良いシステムもないだろう、といった感想であった。戦車が前進(パンツァーフォー)するたび、座席が戦車特有のキャタピラによる地味な揺れを起こすのである。ミリタリーオタクには堪らないであろう。場所にもよるが砲弾を撃った際に火薬の匂いのする劇場もあるらしい。スゴイ。語彙がないからスゴイとかヤバイとかしか言えない。ヤバイ

 

まあとにかく簡潔に言えば面白かったのだ。 

 

興味のないジャンルの、やたらネットで好評価が騒がれている映画が、面白かったのだ。

 

シン・ゴジラ、観ました。

 

 

あらすじは至って普通のゴジラ(恐らく)。

海から何かしらの因果によって水飛沫があがり、長谷川博己演じる矢口が巨大生物だ!と声を高々にして叫ぶのだが信じてもらえず、なんだかんだと言っているうちに尻尾が見え東京湾から陸に上がられ姿を変えながら街を破壊していくゴジラを矢口と日本の偉いひと総出でやっつける…といったストーリー。

 

まず、思った以上に展開が早かった。巨大生物(笑)と開始早々一切相手にもしてもらえないものだから、しばらくこのまま話が続くのかと思いきやあっという間にゴジラの登場である。

そして思った以上にゴジラがグロテスクであった。陸に上がってきたゴジラ第二形態(蒲田くん)がエラから何やら赤い液体を噴出させながらニュルニュル動く姿はわりとトラウマものである。

しかしわたくし、いちばん最初に第二形態を見たときに、うちのおもちが手を内側にしまって寝ているときにすごく似ている…と何処となく我が家のうさぎを感じてしまってからわりと愛しさの方が勝ってしまった。蒲田くん、愛しい。

そしてシン・ゴジラ、なんと内容がほぼ巨大不明生物特設災害対策本部(巨災対)と呼ばれる即席チームと内閣、自衛隊の会議であった。ゴジラとの対決シーン!というよりは会議と調査の結果こういう対策で戦うぞ!攻撃!ダメだ!次だ!会議!攻撃!良いぞ!次だ!といったノリであった。

しかし、冒頭で述べたとおり特撮好きでない私。会議シーンでの白熱した討論・作戦会議・躊躇・意思決定に至るまでの葛藤等が多いほうが飽きずに済みよかった。ゴジラがビルを次々と破壊し倒すシーンもなかなか爽快で良かったが、前者が圧倒的に面白かった。

 

そしてこの展開、何処となく庵野秀明の代表作、エヴァンゲリオンを彷彿とさせはしないだろうか。

 

現れる謎の巨大生物を駆逐すべく人々が力を結集し、作戦を立てながら攻撃に挑む…まさにエヴァンゲリオンと同じ流れを汲んでいるではないか。

 

観客も特撮を観たくて、というより庵野秀明に惹かれて、といった私のようなミーハーな人間も多かったのではないだろうか。

 

そこを知ってか知らずか、このような編成のシン・ゴジラ庵野秀明さすがである。庵野秀明がこういう映画しか撮れないのではといった部分は丸無視することにする。

 

まあまるでエヴァンゲリオン(笑)映画、こういうの好きな人には堪らないだろうなといった感じであった。ところどころにエヴァネタが散りばめられていたのも私はエヴァンゲリオンオタクなので大変面白かった。

 

あとは東京都完全再現で撮られていたのが評価に繋がったのではと思う。自社のビルが粉砕されていて最高だった!といった旨のツイートを散見した。お前さては良かったのそこだけだろ。

 

まああとは全てにおいて固有名詞が多い!長い!早い!で置き去り感が強かった。一度で全て丸々理解できる人間がいるなら尊敬に値する。私の頭が悪いだけという可能性も捨てきれないがきっとそうではないと信じたい。

 

とりあえず丸々理解できなくても楽しめる映画ということは間違いないとは思う。私のような頭の悪い人にもオススメしたい。爽快感に満ち満ちた映画だった。ストレスが溜まってきたらもう一度観たい。

 

 

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我が家のシン・モチラ(第二形態)。

 

主に我が家のコード類を噛み切るなどの災いをもたらす。私のiPhoneケーブルは3本逝った。3DSの充電ケーブルは2個。何故か我が家の絨毯を喰う。私の完成させたラブライブ1000ピースパズルも糊を塗って乾かしていたところ喰われた。勝手に人の寝床を整えていることもしばしば。最近私のベッドがヨダレで若干湿っている。大変迷惑。大変可愛い。

 

比較してみるとそんなに似ていないので比較画像は差し控える。

 

 

ブログを書き終えて推敲していると、ガルパン映画についてのほうが長くなっていることに気がついた。これで晴れて私もガルパンおじさんである。ガルパンはイイゾ。

 

 

最近引きこもりを拗らせて会う人が限られてきている。そろそろ社会へ復帰しなければならない、とは思いつつも楽なほうに流れて淀んでいる。淀み切った先に何が待っているかはわからないが、良くないものであることは確かなので積極的に外へ出て行こうと思う、つきましては来週から…。

 

 

就職をしたくなさすぎてゴジラが札幌まで来てくれることを願っているのだがそのような気配すらないのでいい加減就活をしようと思う次第。